「シッダールタ」ヘルマンヘッセ-愛と正義は対立しないか

本・映画

ヘルマンヘッセは私が大好きな小説家です。

私の生涯の指針にしたい本はヘッセの「デミアン」です。

「シッダールタ」は学生の頃に読んだ本ですが感動したことだけ覚えていて、内容はほとんど忘れてしまっていました。

キンドルアンリミテッドで読めることが分かったので10年以上ぶりに読んでみることにしました。

シッダールタの探求の旅のあらすじ

「シッダールタ」は、インドを舞台にしたヘルマン・ヘッセの哲学的な物語です。

高僧の子であるシッダールタは、真理を求めて出家し、修行者、快楽主義者、商人など多様な人生を経験します。

しかしどれも満たされず、最後には川辺での渡し守としての静かな生活を通じて、悟りを得ます。

彼は「言葉や教義ではなく、すべての存在をあるがままに愛し、受け入れることが真の平安である」と気づき、全体性の中で自己(アートマン)と世界(ブラーフマン)の一体性を見出しました。

感じたこと

私には「すべての存在をあるがままに愛し、受け入れることが真の平安である」との悟りの境地に至ったシッダールタよりも、青年時代のシッダールタのヒリヒリとした「真理を見出したい」という渇望、探求心の方が人間的で美しく、その姿勢こそが生きるという本質のような気がしてしまいました。

ですが、悟りとは完成であり、静かな達観の境地なのかもしれません。

そこに至った考え方が私にとってもどかしいのは、私が相対的にまだ若く、経験が足りていないからかもしれません。

シッダールタがそうであったように、罪も快楽も絶望も、美しいこともつまらないこも自分で経験し、学び取ることを通過しないことには「すべてを愛する」という悟りの境地は理解が難しいのかもしれません。

「あるがままを愛する」という考え方は「正義や世界の良いものを目指す」という考え方に反しないか

「すべてを愛する」「あるがままを愛する」という考え方は私には物足りなく、ある意味間違った考え方のような気がしました。

なぜなら、「すべてをあるがままに愛して」しまうことは、政治の腐敗や戦争、犯罪や混沌とした世界の「悪」までも愛してしまい「悪に立ち向かう」「正義や世界の良いもの(善)を目指す」行為と矛盾するように感じたからです。

この考え方と「シッダールタ」との違和感について、chatGPTの力を借りて考察しました。

シッダールタの「あるがままを愛する」という思想は、必ずしも「善悪を捨て去る」ことを意味していません。むしろ、善悪の理解を深め、それに基づいて行動するための視点を提供していると考えることもできます。

  1. 善と悪を理解する第一歩としての受容
    「悪」をただ否定したり、排除しようとするのではなく、その原因や背景を理解し、根本的な解決を目指すためには、一度受容し、深く観察することが必要です。この受容は、「悪を肯定する」こととは異なります。
  2. 怒りに基づく行動と慈悲に基づく行動
    悪に対抗する行動は時に怒りや憎しみに基づくことがありますが、その結果、新たな悪を生むこともあります。一方、慈悲や理解に基づいた行動は、対立を減らし、より持続的な改善をもたらす可能性があります。シッダールタの思想は、後者の行動の源泉を示しているとも言えます。
  3. 善悪を超えた行動の可能性
    仏教的な視点では、善と悪の二元論を超えた視点から行動することが目指されています。これは善を否定するのではなく、善に基づいた行動がさらなる執着や対立を生まないようにするための考え方です。

なるほど、単に悪を否定し、憎むのではなく、悪に隠されたメッセージを冷静にとらえ慈悲を基盤に行動することが重要とのことでした。

また、興味深かったのは

「悪と戦うだけでなく、善を広める行動に力を注ぐことも重要です。善が根付き広がれば、それ自体が悪を減少させる力になります。」

との意見でした。

全ての物事を自分が担えるわけではないい所、悪(政治の腐敗や戦争など大きな社会問題)に固執するのは意味がないことかもしれません。それについて考え思いをはせることは必要だけど、自分に可能な善を広める行動に力を注ぐのは重要なことのように感じます。

「何者かになりたい」という私の渇望について

青年期のシッダールタが真我(アートマン)や梵(ブラーフマン)について悟りを得たいと探求した心の在り方は「私はまだ何者にもなれていない。何者かになりたい」という私の渇望に通じるものがありました。

私の場合の行動指針についてchatGPTの力を借りました。

  1. 具体的な探求を始める
    自分が「何者か」になりたいと感じる領域について、少しずつ具体的に掘り下げてみると良いかもしれません。たとえば、「どんな自分になりたいのか」「どんなことをしている時に自分を感じるか」など、問いを立ててみるのも一つの方法です。
  2. 探求そのものを大切にする
    何者かになりたいという願望の先に答えを求めるだけでなく、その探求そのものがあなたの人生を豊かにしてくれるものだと考えると、少し肩の力が抜けるかもしれません。
  3. 体験を通じて認識を深める
    渇望を満たすためには、考えるだけでなく、実際に行動することが大切です。新しい経験や人との出会い、挑戦は、あなた自身を形作るヒントになるはずです。

生きるヒントになりそうです。

双極性障害者の私が「シッダールタ」を活かす心の在り方とは

最後に、双極性障害の私がヘッセの「シッダールタ」を活かす心の在り方について。

1. 「川」の象徴から学ぶ

川はシッダールタにとって人生と真理の象徴でした。川は常に流れ続け、変わりゆく一方で、その全体性は変わらず存在します。双極性障害の感情の波も同様に、常に動きがあるものですが、それはあなたという全体の一部です。

活かし方:

  • 自分の感情の波を「川の流れ」として捉えてみる。高揚や落ち込みを、ただ流れていくものとして観察する練習をする。
  • 感情の変化を否定せず、「今はこういう流れなんだ」と受け入れる姿勢を持つことが助けになるかもしれない。

2. 「渇望」の肯定と克服

シッダールタは渇望に突き動かされながらも、それを乗り越える過程で自己を深く理解しました。双極性障害においても、「こうありたい」「もっと安定したい」という強い願望があるかもしれません。その渇望は苦しい一方で、成長の原動力にもなります。

活かし方:

  • 渇望を無理に抑え込もうとせず、それが自分のエネルギー源であることを認識する。
  • 渇望そのものを深く見つめ、どのような願いが隠されているのかを探ることで、感情や行動を整理するきっかけを作る。

3. 「教え」よりも「経験」を信じる

シッダールタは他者の教えを超えて、自らの経験を通じて悟りに至りました。双極性障害の治療や自己探求もまた、他者の意見や理論だけでなく、自分自身の体験を大切にすることが鍵になります。

活かし方:

  • 医師やカウンセラーの助言を受けつつも、自分の体調や感情の動きを観察し、どんな方法が自分に合っているのか試行錯誤してみる。
  • 体験を日記や記録として残し、自分の「人生の物語」を書き続けることで、変化を受け入れる土台を作る。

4. 「あるがまま」を受け入れる力

シッダールタは、すべてをあるがままに受け入れることが最終的な悟りであると気づきました。双極性障害においても、完全な解決を求めるより、「今の自分も自分である」と認めることで心が楽になることがあります。

活かし方:

  • 気分が高揚しているときも落ち込んでいるときも、「これは私の一部であり、今はこういう時期なんだ」と受け止める練習をしてみる。
  • 完璧を目指すのではなく、日々の小さな成功や喜びを見つけることを目標にしてみる。

5. 「愛とつながり」の重要性

物語の最後で、シッダールタは川の渡し守として他者と接する中で深い満足感を得ます。双極性障害においても、孤立せず、他者とのつながりを持つことは非常に大切です。

活かし方:

  • 信頼できる友人や家族、医療の専門家とつながりを保つことで、感情の波の中でも支えを感じられるようになる。
  • 他者を支えたり、共感したりすることで、自分自身の存在価値を感じられる場を作る努力をする。

6. 「全体性」を思い出す

シッダールタが悟ったのは、人生は善悪や成功失敗といった二元論を超えた全体性を持つということです。同様に、双極性障害も「病気」という一面だけでなく、あなたの人生や個性の一部として捉えることができます。

活かし方:

  • 双極性障害そのものを「自分の物語の一部」として捉え、それが自分の成長や創造性につながる可能性を見出してみる。
  • 病気がもたらす苦しみだけでなく、その中で得た学びや気づきに目を向けることで、自分自身を肯定するきっかけを得ることができる。
この記事を書いた人
躁鬱くん

2008年から体調がおかしくなり、2009年耐えられなくなって精神科へ。当初は「転換性障害」、「摂食障害」と、「境界性パーソナリティ障害の疑い」でしたが、2013年から「双極性障害」と診断されています。
女性です。
振り返ると、大切な人間関係すべて破壊して生きてきました。これからは破壊ではなく皆と愛を育んでいきたい。

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